12月 28

桃太郎伝説の旅(吉備津神社など)

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レンタカーの旅、今回は桃太郎伝説が残る神社や遺跡を巡ってきました。
岡山といえば桃太郎が有名ですよね、なぜでしょうかそれは岡山には桃太郎のおとぎ話の基になる「温羅(うら)伝説」がありその伝説ゆかりのスポットが沢山あるからです。
伝説の旅を興味深くしていただけると思いますので「温羅(うら)伝説」を紹介させていただきたいと思います。

 昔、昔、吉備の国新山(総社市奥坂)に温羅(うら)と呼ばれる者がおりました。温羅は百済(くだら)の王子で空を飛んでやってきたと言われています。温羅の身長は一丈四尺(4.2メートル)、両目は虎か狼のように爛々と鋭い目つき、髪や髭はぼうぼうと伸び色は燃えるような赤でまさに鬼のような姿をしており吉備冠者とも呼ばれてました。温羅は居城(鬼ノ城)を築き、山賊みたいに都への貢物や婦女子を略奪したり、人を大きな鉄の釜(鬼の釜)に入れ煮て食べたりと悪事の限りをつくし人々を苦しめていました。たまりかねた人々は、大和朝廷に温羅退治を申し出ました。さっそく武将が送り込まれましたが、神出鬼没で変幻自在な温羅は強く武将たちはことごとく敗れ去りました。そこで白羽の矢がたったのが、武勇の誉れ高い五十狭斧彦命(いさせりひこのみこと・後の吉備津彦命)でした。命は吉備の中山(吉備津神社)に陣を張り温羅との合戦に臨みました。命は温羅のいる鬼ノ城めがけて矢を放ちますが、温羅は大きな岩を投げて命の放った矢を落としてしまいます。この矢と岩が落ちた場所といわれているのが吉備津神社と鬼ノ城の中間地点にある矢喰宮(やぐいぐう)と言われています。戦いは互角でなかなか勝負がつきません、そこで命は一度に2本の矢を射ることを考えました。1本は落とされましたがもう1本が見事に温羅の左目に命中しました。温羅の目から吹き出した血が川に流れその川は血吸川(ちすいがわ)と呼ばれ、下流の浜を真っ赤に染めその浜は赤浜と呼ばれるようになりました。さすがの温羅も負けを覚悟したのか雉(きじ)に化けて山中に逃げますが命は鷹(たか)となって追いかけます。そこで温羅は鯉(こい)に化けて血吸川に逃げ込むと命は鵜(う)となって追いかけとうとう鯉に化けた温羅を噛みあげてしまいました。この噛みあげた場所にあるのが鯉喰神社(こいくいじんじゃ)と言われています。降参した温羅は自分の「吉備冠者」の名を命に捧げたため、それ以後、命は吉備津彦命(きびつひこのみこと)と改名されました。捕えられた温羅は首をはねられ首村(こうべむら)にさらされました。その場所が白山神社(はくさんじんじゃ・岡山市北区首部[こうべ])と言われています。ところがその首は何年たっても大声で唸り続けました。命は家来の犬飼武(いぬかいたける)に命じてその首を犬に食わせてしまいましたが、ドクロとなった首はなお唸るのをやめませんでした。そこで命は吉備津神社の御釜殿の土中深く首を埋めさせましたがなお13年間唸り続けました。ある夜のこと、命の夢枕に温羅の霊が現れて「わが妻、阿曽郷(あそのごう)の祝の娘、阿曽媛(あそひめ)に神饌(みひ)を炊かしめよ。そうすればこれまでの悪行の償いとして、この釜を唸らせて世の吉凶を告げよう」と、これが今に伝わる吉備津神社の鳴釜神事(なるかましんじ)です。その後、吉備の国の統治にあたった命は、281歳の長寿をまっとうし、吉備津彦神社の御祭神として祭られています。

以上のとおり、「吉備津彦命」が「桃太郎」・「温羅」が「鬼」のモデルとされていますが、それにしてもちょっと残酷な桃太郎と凶悪な鬼ではないでしょうか、実はもうひとつの「温羅伝説」が存在します。それは、温羅は2メートルを超える大男で顔には髭を生やし、大勢の仲間とたどり着いたということです。ただ、言葉が通じず、よく怒っていたので人々は恐れていつの間にか鬼と呼ばれるようになったということです。
ある時、大和朝廷への貢物を運ぶ人が通りかかり、温羅とその仲間が貢物の行き先を聞いたところ、怖い鬼に襲われたと勘違いをされ、大和朝廷と戦いが始まったとされています。結果はやはり温羅が負けますが、命乞いをしてきた温羅の願いを吉備津彦命は聞き入れ温羅を家来にして吉備津彦命によく尽くしたということです。
温羅は百済から造船技術や製鉄技術を伝え、吉備国を繁栄させて民衆からは「吉備冠者」と呼ばれて親しまれた人物で本当は、「いい奴」だったのかもしれませんね。

それでは早速、桃太郎の出迎えをうけて岡山駅から出発します。

岡山は「晴れの国」です。その通り今日もいい天気です。

鬼ノ城へ到着しました。駐車場にあるビジターセンターより徒歩でメインのに西門を目指します。


西門が見えてきました。
標高400メートルのところにある復元された西門に到着しました。

ここで鬼ノ城についての概要をご案内させていただきます。
7世紀の東アジアで、660年、唐(とう)・新羅(しらぎ)の連合軍に滅ぼされた百済(くだら)の要請により朝鮮半島に
援軍を送った大和政権でしたが、663年、白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅連合軍に大敗してしまいました。
そのため唐・新羅の進攻に備えるため、西日本の要所には朝鮮式山城が築城され、その朝鮮式山城と同種遺跡
の古代山城があり、鬼ノ城もその一つと考えられています。
どうりで日本の城のイメージとは違うわけです。
伝説では、温羅はここから吉備津彦命の放った矢に向かって岩を投げたということです。



続いて矢喰宮にやってきました。
伝説では、吉備津彦命の放った矢を温羅が岩を投げて落とした場所でその時の岩が沢山ありました。




続いて血吸川に立ち寄りました。
伝説では、吉備津彦命の放った矢が温羅の左目に命中し吹き出た血が流れた川で、温羅が鯉に
化けて逃げた川ということです。

正面山の上に鬼ノ城を見ることができました。

続いて鯉喰神社にやってきました。
伝説では、鯉に化けた温羅を鵜に化けた吉備津彦命が噛みあげた場所ということです。




続いて吉備津神社にやってきました。
神社参道入り口に吉備津彦命が温羅へ矢を射る時矢を置いたといわれる矢置岩があります。

参道階段を上っていくと、立派な本殿があります。この本殿は国宝に指定されています。


さらに、回廊を下っていくと御釜殿があります。

伝説では、この釜の音は温羅の唸り声で温羅のドクロがこの土中に埋まっている
ということです。
扉が少し開いていて、一組ご祈祷を受けている様子がみえました。撮影はできませんが中の様子が
少し見えました。お釜から湯気があがっていて神秘的な雰囲気でした。

続いて吉備津彦神社にやってきました。

ここで吉備津彦命について、
吉備津彦命は、第7代天皇の孝霊天皇の皇子の一人といわれています。
また、姉の「オオヤマトトトヒモモソヒメノミコト」は卑弥呼ではないかともいわれています。

敷地内に「君が代」に登場する「さざれ石」がありました。まさに聖地の雰囲気です。

そして、桃太郎のモデルらしく桃太郎の人形もありました。

続いて最後になりますが、白山神社にやってきました。

伝説では、この場所で温羅の首がはねられたとなっています。
首塚がありました。御祭神となっています。


この神社も駐車場もなく道が非常に狭いので離れた場所に車を止めて徒歩をお勧めします。

以上で「桃太郎伝説の旅」を終えますが、いかがでしたでしょうか、桃太郎のおとぎ話のモデルとなる
「温羅伝説」もまた、おとぎ話に満ちていますが実在と思わせるほどの言い伝えや神社・遺跡・地名が
残っていて歴史のロマンと伝説のミステリーを感じることができました。

最後に本日のお供を紹介しておきます。 パッソです

なかなかいい奴ですので、皆様も旅のお供にいかがでしょうか

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